《快挙、それとも暴挙、世界的奏者によるコンサートが市美で!》

2013年ICANOF展「北島敬三————種差 scenery 」特別プログラム

9月15日(日)14時半スタート:コンサート+トーク《ノンコクリア・スィーナリー》
出演:橋本晋哉[テューバ・セルパン]・鈴木俊哉[リコーダー]・根本忍[コンピュータ]
(3階展示室にて・入場無料)
>> 《非ー蝸牛殻的景観》サイト

2013_hashimoto

(1)
> 「なんで岩手なの?」——里に悪さを働いた羅刹鬼(らせつき)が「三ツ石様」に懲らしめられ、二度と悪さをしないというシルシとして、「三ツ石様」の岩につけた降参の手形から。

> 「なんで福島なの?」——福島市の真ん中にある信夫山(しのぶやま)に吾妻おろしが「吹く」島という説。

 2006年の(可住地面積ではなく、無人の原野・峡谷を含む)県別面積一覧では、ダントツ北海道の1位は別として、2位岩手、3位福島、5位新潟、6位秋田、7位青森、8位山形、16位宮城。ミヤギは文字どおり、8世紀以来の征夷・征東の拠点多賀城に基づく「第二の皇居」だから、これ以上の補足は要らない。ここでは奥羽越列藩に与した他の6県、とくに岩手・福島のネーミングを辿ってみよう。つまり、ニシの王朝・権勢にとってヒンガシ=ヒナシは丑寅=鬼門の「まつろわぬオニ=阿仁ども」が跋扈する「化外の地」にほかならず、その同化=異化のボーダーが、東国=アヅマに接する第一の関所たる福島だったに違いない。大化改新の律令「国造(くにのみやつこ)・国司」が、まず福島=信夫郡に適用されたほど「シノ・シノブ・シノブセ」の来歴は古い。シノ=篠が逆巻くほど未開の山系・征夷すべき鄙(ひな)の異域たるや、まさにアイヌ・エミシ・エツ・シルラ・タタラ・クグツや渡来系海洋民による広大な交易文化圏に怖れを成していた証左ではないか。古今集には「みちのくのシノブもぢ摺りたれゆえに 乱れそめにしわれならなくに」とあり、それは福島県信夫地方の「摺り衣紋様」だと辞書にも特記されている。忍草を石でモジルように布地に乱れ摺りした狩衣が、古来よりモガリ祭祀の正装として重視されていたほどなのだ。

(2)
 福島生れの作曲家根本忍さんから伺った挿話を披露したい。

> 阿武隈川の河口から福島盆地に太平洋が入り込んでおり、佐波湖等の地名で呼ばれた泥海の中央に浮かぶ、羽黒権現を祀った島が信夫島・「信夫山」です。実際に信夫山からはサメの歯の化石なども出土しますし、現在でも出羽三山信仰の地です。泥海ですから舟が無ければ島に渡れません。舟を持たない=渡れない人々が遠く信夫島を臨んで拝んだ地が「伏拝(ふしおがみ)」であり、放射線被曝「ガセ発言」で悪名を轟かせている福島県立医大及び福島大学はここに隣接しています。なお、泥海に棲んでいた「大水熊」という化物を退治して欲しいと民が日本武尊に依頼し、日本武尊が信濃國の諏訪明神に加勢祈願した地が伏拝、という別説もあります。実際に伏拝には今も「拝石」「舟繋ぎ石」が残っています。**

ここで初めて、前述の空位=4位長野のジオポリティクスが俄然、凄みを発揮してくる。諏訪明神で知られる長野は、写真家北島敬三さんや写真史家倉石信乃さんの故郷でもあるからなのだが。根本忍さんの興味深い話はさらに続く。

> 更に東側(伏拝は南側)から泥海を見下ろす「黒岩」に棲んでいた大蛇と先述の大水熊が争い、大蛇は「猿跳(さるばね)岩」(梁川町の北=阿武隈川河口付近)から太平洋に逃げ出し、その際に猿跳岩を壊したため泥水が太平洋に流出し盆地が出現したという。余談ながら、黒岩~渡利~弁天山=「椿館」が『山椒大夫』、即ち「安寿と厨子王の悲話」の舞台です。

> 信夫山が位置する信夫盆地の中央部が、古代には岑越(みねこし)と呼ばれていたらしいこと、及び、福島市旧市内=信夫郡に、八島田・鳥渡・入江野など海、或いは水の存在を匂わす地名が複数残っていること等。この信仰の地=信夫島は、「福をもたらす」島として「福の島」即ち福島と呼ばれたと聞きます。

> 兎にも角にも面積が広く、地域によって風土も住んでいた人種も(アイヌのみならず中国・朝鮮系渡来人が局所的に居住したとされる地があったり)出自も文化風俗も中央による政治的思惑も歴史的経緯も異なる上、海も含め四方からヤマトなり何なりが侵入し通過し往還し、或いは定住したらしいフクシマについては不明・不詳のことが少なくありません。****

(3)
 写真家笹岡啓子さんお薦めの冒頭の説に加えて、山岳修験・石神信仰をまずは念頭におくことにしよう。征夷を難渋させる岑越山・羽黒権現を「伏」拝(ふしおがみ)する「フシのフシマ→フク島」(後述のアイヌ語「クの小文字表音」の復活)説も、さらには、棄民・流民たちが転住してきた痕跡から「山民・サンカの別名セブリ・野伏せり=ノブセリ」のシマ説もまた、やや強引ながら捨てがたい。「フセ」とは山神・石神・異神に平伏する含意のみならず、征夷の魔手に屈することなく険峻たる峡谷や原野を遊動しつつ、いましも身を伏せて飛びかからんとする臨戦態勢をも意味していた。出自も消息もしれない異族の群れの、杳としてみえがたい渉猟。いつなんどき「みえない牙」が剥き出されるか、誰にも気づかれずに。あたかも2011年のあの災厄と、遠く近く響応していたかのように。

 もうひとつ、「岩の手形」説にもまして、すでに拙稿「二歩と二風のサーガ」(2009年、『アートポリティクス』所収)の後半に、生前住み慣れた家とともに使い慣れた日用品などを死者とともに焼き払う、アイヌ語の「イハクテ(クは小文字表音)=もの送り」説を述べていて、道南~下北~三陸におけるアイヌ・エミシの海洋交易圏を想定するなら、かなり信憑性の高い説ではないだろうか。

 陸前・陸中・陸奥・羽前・羽越・羽後、そして信濃、それぞれに異なる地霊=ドゥエンデを見据えていくとともに、捉えたと思いきや、その手からするりと逃げさっていく「ハテ」とその「名」をいかに掬いあげていくか。江戸後期の大飢饉と民衆一揆の多発はもとより、末期には対露防衛の蝦夷島派兵、戊辰戦争の奥羽越列藩同盟への報復「廃藩置県・廃仏毀釈」、とりわけ会津藩の斗南(となみ)藩への「転身=強制連行めいた入植・辛苦・離散」など、キリがあるまい。その問いに、歴史の裏側から応えたのは、鳥瞰図絵師吉田初三郎であろう。わが種差海岸を「陸奥金剛」と名づけることによって。「朝鮮総督府」による金剛山電鉄の開発・延伸は、昭和恐慌対策の一手でもあり、三陸出身者も少なくない「関東軍」による世界戦略上、南満鉄と「幻の北満鉄」との果たせぬ一本化の野望を裏づけるものでもあった。日本国内の軍部や政府の及び腰を尻目に、ウルトラナショナルな国際観光戦略の一大拠点として、クムガンサン=金剛山リゾート開発が急展開される。初三郎による「種差=陸奥金剛」は、国外にあって、国内では果たしえない世界制覇を夢みた者たちの、いわば「ハテの名」そのものであった。世界にはハテというものがあり、そうであるからには、そのハテに名がなくてはならない。「種差=陸奥金剛」がそれである。
(2013. Aug. 16 th 豊島重之)

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