©Kitajima Keizo

東京堂書店にて『種差 四十四連図』刊行記念トークショウに寄せて:《~ 浸透する飢餓から飢餓する身体をもぎ取るには ~》

(photo: ©Kitajima Keizo)

 

《~ 浸透する飢餓から飢餓する身体をもぎ取るには ~》

『種差 四十四連図』刊行記念トークショウ

▶ 2014(平成26)年1月18日(土)開場17時15分/開演17時45分~
神田・東京堂書店6Fホール(神保町駅A7出口)・トーク入場料 500円・要事前予約:03-3291-5181(東京堂神田店)/ shoten@tokyodo-web.co.jp まで
▶ ICANOFでも事前予約可: icanof8@gmail.com/090-2998-0224 まで
講師:橋本一径(表象文化論・早稲田大学准教授)・倉石信乃(写真史・明治大学教授)・北島敬三(写真家)・豊島重之(演出家)
▶ 急告:東京堂書店にて北島敬三〈種差〉写真B1ポスター展も同時開催中!
>> 東京堂書店 Website
 

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(左から)倉石信乃・北島敬三・豊島・橋本一径の各氏

(左から)倉石信乃・北島敬三・豊島・橋本一径の各氏

(1)
 種差岩礁は三陸被災の「側方」にある。思いがけなく地続きでアクチュアルな側方性に。いま被災の震央を語らせるとしたら、種差をおいて他にない。とはいわないまでも、種差からその震央を燎原の火のように逆照射することが可能なのではないか。本書の戦意はそこにある。
 画家の矢野静明による書評が図書新聞に、写真史家の倉石信乃による書評が週刊読書人に、相継いで掲載された。両評とも本書の戦意を鋭く見抜いた筆致に貫かれている。まず矢野は、写真や映像における異例の視覚体験を踏まえながら、北島が捉えた種差の写真に、《見えるものに正面から向き合っていく隠れなき「中心化」》を見いだす。《それ以外のことは語らない寡黙さ》において、いっそう《際立った中心化》が発動しているのだ。そればかりか、《鮮明に中央に写された「白岩」の姿は、かえってそこに在ることの奇怪さを漂わせ、不動の存在の奥に強烈な「不在感」を感じさせる》と。ここで読者は躓くかもしれない、矢野のいう中心化の含意を取り違えるなら。いわゆる中心と周縁といった二項構造の中心のことではなく、かといって、超越的・始源的な現前と表象編制的な「不在の現前」に孕まれた中心化ではないにしても。
 

(2)
 「白岩」を北島はどう掴まえたか。それは「白岩」が北島をどう掴まえたかという問いに等しい。いうなれば、白岩の〈地〉と白岩の〈図〉が、過不足なく濃密に圧延されている。権力化と全体化の表象から切り離され、孤絶した中心化を切り出しうるのは、この二重の身ぶりにおいてなのだ。北島の「白岩」は厳然として中心を占める。ゴツゴツした地肌を半身に迫り出しつつ。しかもその両端「に」配され/両端「を」刻まれた物塊たちをも、中心化の帯電空間に変貌させてしまう。外へと開かれたエッジ(edge)こそが、ウェッジ(wedge)の火花を散らしながら中心化の炸裂を瞬時に果たしていくのだ。
 「白岩」の一頁前に「淀の松原」、そして一頁後に「地獄穴」。いずれも中心化の荒々しい炸裂が、その遠い痕跡が低く唸りを挙げている。そこから振り返るなら、「白岩」の寡黙な中心化は驚くべき秘蹟に転ずる。そのさらに一頁前に「深久保漁港」。その後ろ姿が召喚されなくてはならない。奇怪なまでに堅固な〈図の中心〉が、激しく空洞を穿たれた〈地の中心〉に鍛え直される。シークエンシャルの秘蹟。急転直下、物塊たちの存在感が不在感に裏返されるその蝶番を、矢野は隠れなき中心化とみなしたのではなかったか。
 

©北島敬三「白岩」

©北島敬三「白岩」


(3)
 ———— 来たるべき「破局」の「前夜」として照らし出された現在を目撃し、飢餓の記憶を刻印された東北の身体を————
 このパッセージは、青森県立美術館の高橋しげみ学芸員が《種差 よみがえれ 浜の記憶》展を概覧した芸術批評誌「REAR」所収稿からの引用だが、とりわけ私たちICANOF企画展《北島敬三———種差 scenery》への真率かつ深甚なる言及は瞠目に値する。現在とはいつだって、来たるべき破局の前夜となりうる/前夜でありうる、という高橋の厳しい歴史認識を分かちもつことからしか始まらない。来たるべき破局は絶望に脅える様相ではなく、危機的な局面を踏み破る/常に危機とともにある「歓喜に震える群生」と捉え返されるのだ。
 倉石書評もほぼ同様の立地といえる。《ここで豊島がたぐり寄せようとする種差の歴史とは、端的にいって「飢餓」のそれである。飢餓の一語は、(・・・)東北を規定してきた本来性の別名にほかならず、豊島はそれをあえて当代に召還した》。被災同然の、それを上回る破局、技術化・産業化の浸透に撃ちのめされた破局の極性が飢餓だ。産業化の極致たる戦争「を」もたらす/「が」もたらす飢餓もあるからだ。
 とすれば、もうひとつの極性を忘れてはなるまい。飢餓する身体はいかなる共苦を帯びた戦意なのか。田野畑・野田・大槌など陸中から陸奥種差へと飛び火した一揆の度重なる記憶。権力の圧政と飢餓の窮状を越訴(おっそ)する蜂起の群れの身体。飢餓が飢餓の思考を深めていく燃え直す燠(おき)の身体。女性たちが夜を徹して握り続けた兵站・非常食「めのごまんま」のめのご(若布の粉粒)を前にしばし立ち尽くし、あの「歓喜に震える群生」がこの身体にも帯電してくる気がしてならなかった。

(Jan. 2014 ICANOFキュレーター 豊島重之)

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