ICANOF展評『飢餓の木 2010』/矢野静明
矢野 静明(やのしずあき、画家、神奈川県在住)
![]() 吉増剛造作品・常設展示 ![]() 豊島弘尚絵画作品・常設展示 ![]() 倉石信乃+須山悠里『HOUSE-WOMAN』常設上映展示 |
詩人黒田喜夫の名前、そして「飢餓」という反時代的な言葉の求心力によって、そこに展示された作品は結びつき、そしてそれぞれの作品に内在する力によって遠心力を働かせ、どこまでも交わることなく、それぞれの場所で息づいている。
十周年記念となるICANOF(イカノフ、代表米内安芸)『飢餓の國・飢餓村・字(あざ)飢餓の木展』の今回の展示は、詩人吉増剛造の映像作品、画家豊島弘尚の絵画作品、美術史家倉石信乃+須山悠里の映像作品によって構成されている。いずれも独自の思考と手法をもって完成された優れた作品であり、ここで一括りにして語られてはならないものなのだが、限られた字数であれば今はそうするより仕方がない。
「飢餓」なる言葉が突如として現れた今回の企画展示を支えている大きな二本の柱は、吉増剛造と豊島弘尚による二つの作品群である。吉増の映像作品は世に知られたgozoCiné、ほとんど肉体と一体化するように手放さず作動し続けるカメラ、そのカメラがとらえた映像と音声が二階の展示室に休むことなく流れている。巨大な画面に映される「八戸の蟻塚」、そして月山や遠野への道行き。ぶれる手元、増減する音量、詩人の声。カメラは詩人の肉体をそのままに呼吸し、世界の音と姿をどこまでも吐き出す。
一階と三階の二つのギャラリーに展示された豊島の絵画と書作品は、重力に尚も圧をかけてコスモロジーをねじ伏せるかのような圧倒的な力を顕現させる。赤と緑の強烈な補色対比に、墨を基調とした物質的な黒色を重ね、さらに銀箔をはり、油絵による「西洋絵画」とは異質な絵画空間を開示する。絵画と同時に展示される豊島の筆によって描かれた黒田喜夫と宮沢賢治の二篇の詩の存在は、東北の地を出自とする豊島弘尚の絵画空間が、どのような場から出現し、その異質性に至ったかを、われわれの前に暗示し、手がかりを与える。
展覧会と同時に出版された豪華なカタログには、前述した吉増と豊島の多くの作品図版、そして様々な執筆者によって書かれた多様なテキストが収録される。なかでも、現代フランス文学・思想のすぐれた翻訳や研究で知られる鵜飼哲が参加した重要なトーク・セッションの三つの記録が収められている。この鵜飼講演から「飢餓」の主題へのいくつもの源流を読みとることもできよう。
同書『飢餓の木2010』は、内容の豊富さにおいて、常軌を逸するほどに過剰なものだが、「飢餓」をめぐり出現してきたこの「過剰」とは、アイロニーか、もしくは何かの錯誤であろうか。そうではないはずだ。飢えは適度な充足など決して求めない。「過剰」とは、恐らくそれ自体「飢餓」なのである。このカタログが、「飢餓」をテーマとした展覧会のために準備されたのは錯誤ではなく、確かな要請に応じているのである。

(photo by YONAI Aki/4点とも)
2010年9月17日に開幕したICANOF第10回企画展『KwiGua展』は、26日まで計10日間、八戸市美術館で開催。日本芸術文化振興基金助成。
同展カタログ『飢餓の木2010』の問合せはICANOF事務局 090-0228-0224(高沢)/またはお問い合わせフォームにて。