寄稿・《自然史としての忌部(いんべ)山》/露口啓二

露口啓二 TSUYUGUCHI Keiji (写真家・札幌在住)
 

徳島県を東西に流れる吉野川、その中流域右岸に位置する吉野川市西方の一角にある山崎という地、この地の忌部山(いんべやま)と称される標高250メートルほどの山腹に、忌部山古墳群と命名された五基の円墳(えんふん)が形成されている。これら「忌部山型石室(せきしつ)」と呼ばれる横穴式石室群の主(あるじ)が、古墳時代後期以来この地域で活動した阿波忌部(あわのいんべ)と呼ばれる職能集団である。

山崎の地の南方と西方には、平野部の人々から「ソラ=空」と呼ばれる、剣山(つるぎさん)を中心とした山の世界が広がり、阿波忌部はソラの世界とかかわりながら、それらと阿波の東海岸に展開する「カイフ=海部」と呼ばれる海の世界、さらには紀伊水道を渡って畿内(きない)世界とを繋ぐ、河川交通路としての吉野川の中流域一帯の古代文化に深く関与している。彼らは、異なる自然が形成した文化圏の間の通路の、触媒(しょくばい)ともいえる役割を持つ存在といえる。

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山崎より吉野川を僅かに下ると、善入寺(ぜんにゅうじ)島といわれるかなり広大な中州(なかす)が現れる。日本最大の川中島といわれるその島は、かつては粟島(あわしま)と呼ばれ、忌部氏(いんべし)が開拓した植民地であったともいわれるが、現在もかなりな耕作地が広がっている。吉野川増水(ぞうすい)の度に、洪水の危機に見舞われるこの島は、古代においても現代においても、重要な農業生産の場なのだ。この危険な場所をあえて選び、忌部は農耕という文化を形成する。

吉野川市は旧名を「麻植=おえ」というが、その名のとおり忌部は粟(あわ)や麻(あさ)を植えるのだ。これら、忌部が象徴する人間と自然の関係のあり方は、私たちと自然との関係と同じなのか、あるいは異なっているのか、異なっているとすれば、どこがどのように異なるのだろうか。忌部にとって、ソラという自然、カイフという自然、吉野川という自然は、どのようなものだったのか。

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「3.11」以降、私たちはどのような自然に出会っているのだろうか。未曾有の、という使い古された形容をはるかに超えた剥(む)き出しの自然と、私たちはいまも何の隔(へだ)ても距離も持たず、対峙(たいじ)したままである。いや、「3.11」以前にも面と向かい合っていながら、見えない振りをしてきたのだろう。この、私たちの眼前の、自然と呼ぶには逡巡(しゅんじゅん)せざるを得ない「自然」は、忌部が見てきた自然とは、当然ながら異なっている。しかし、自然は、自然そのものは、はたして変わったのだろうか。
忌部山の、古墳群への小径(しょうけい)には、神道と仏教が混在した建造物があり、竹林など山の自然には、多くの人の手が加えられている。これを自然と呼ぶべきかどうかも、いまは定かではない。

(2011年8月)

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