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《シラオイ 1931年》 ~ それはなぜ豊島弘尚追悼公演に呼び寄せられたのか?/豊島重之

(^ top: performed by Nakano Mari 《nino-maii bis》
Aug. 2014, H. C. Museum of Art, photo by Miyauchi Akiyoshi)

▶ 1
 縦サイズの黒枠の一点。遺影にしては少し妙である。
 黒枠に縁どられた日なたの光景は、左手に着慣れない軍服で初々しく直立する斜め後ろ向き*1のアイヌ男子と、
 右手にその出征を見送るアイヌ正装の両親、および召集に付き添う当該地区愛国婦人会らしき女性の計四人が、
 万歳三唱どころか敬礼の身ぶりもなく、ただ頑なに押し黙って正対しているものだ。

▶ 2
 玄関の敷居と葺き屋根と左右の柱が黒々と焼きこまれた四隅は、チセ=住まいの内部から隠し撮りしたためである。しかしなぜ?
 大っぴらに撮ることが憚られたせいか?
 為すすべもなく少年を徴用された撮影者*2の、
 胸を掻きむしるような悔恨から、せめて出征の光景自体を遺影にしたかったのか?
 だとすれば、やはりこれは遺影の写真ではなく「写真の遺影/写真それ自体の遺影」と呼ぶほかないのかもしれない。

▶ 3
 あたかもアウシュヴィッツ=ビルケナウ第五焼却棟*3の黒枠の内部から隠し撮りされた、
 特務部隊=ゾンダーコマンドの手によって絶滅収容所から「もぎとられた四枚の写真」*4を誰もが連想させられるけれども、
 それ以上にいま私たちが驚くべきは、
 中学を出たくらいのアイヌ初年兵も大勢いた事実を失念させられていたことである。
 満州事変の一九三一年頃に白老=シラオイから従軍したこの男子も、満州の焦土となってもうコタンには生還しなかったのだろう。

▶ 4
 広大な沼や湖に抱かれたアイヌ集落、ポロ・ト・コタン。
 虻(アブ)の多いところ、シラウ・オ・イ。
 幕末には対露防衛の仙台藩白老元(モト)陣屋*5が築かれ、
 明治から昭和にかけては近代戦という葬列=ウニエンテを驀進させた室蘭本線の、
 アブの群れるほどに死臭を放つ墓標=クワと墓所=トゥシリ。
 撮影者は木下清蔵*6
 青森市生まれながら苫小牧で写真館を始め、白老アイヌの人々の信望を得て、まもなく白老に住みつき、
 八十歳をこえる後半生を白老「観光」写真*6に捧げたことで知られる。
 同じ青森市生まれの写真家小島一郎*7よりはるかに年長であり、かつ小島が活躍した昭和三十年代はもちろんだが、
 小島没後よりさらに二十年もカメラを手放さなかった木下の写真から、私たちは観光の一語では済まない、驚嘆に値する先住者の死生観を学ぶことになる。

▶ 5
 一例を挙げれば、「タル=荷負い縄」の写真*6
 難産の場合、火の神と臼の神の加護を願って、長老=エカシが囲炉裏=アペフチに陣取り、その背後で妊婦がウスをキネで搗(つ)き、
 それから天井の梁に吊したタルに掴まって出産するのだという。
 それでも難産のときは、妊婦の母親が右手に鎌をかざし左手に杖をつき、チセ=住まいの裏の「アシンル=便所」の神*8のより強力な加護を願いでる。
 そうして産まれた嬰児を母親が背中におんぶする際も、そのタルを臍帯さながら頭部から背面へと張り渡す写真*6さえある。
 ここでは種火を絶やさぬことと、難産を鎮めるべく火が燃えさからぬよう見守る/目を光らせることとは同義であり、
 もはやトキが満ちたと子宮底を打刻=告知することと、妊婦が胎児の辛苦を共苦=擬態することとは同義なのだ。
 むろん産後の育児にもその臍帯=タルが欠かせない。
 まさしく「産」とは「死と後生(ごしょう)*9/死後の生」にほかならず、字義どおりタルとは、苦界と他界を縫いこめる舫(もや)い綱であった。

▶ 6
 いかに厚い親交や深い信頼があったとはいえ、こうした瞠目すべき写真を木下に撮影させてくれたアイヌの人々に、誰もが畏敬の驟雨を浴びずにはいない。
 いささか誇張を覚悟のうえ、あの昆布採りの少女を照らし出した田本研造*10の写真が「地(ヂ)の恩寵」なら、木下清蔵の写真は「図(ズ)の恩寵」だと称したいほどである。
 写真からは知らされないだけなのだが、あの胆振=イブリの少女*11にもこの白老=シラオイの少年兵にも「名は」ない。
 それを切り結ぶものが「タル=縄」の写真なのだ。
 むしろ二人をタルという名で呼びかける、それが辛うじて写真行為なのではないか。
 とともに、常に既にどんな名も奪われてしまうソトに向けて、
 かつてソトとはリテラルに路上を意味し、オモテともウラとも呼ばれた消息にこそ照準を絞るべきではないのか。

▶ 7
 胆振=イブリの岸辺に漂着した昆布の群れから相当に重い一束のコンプを持ちあげる、やや前屈みの女子の横向きのアップ。
 重装備のカメラは彼女のすぐ目前の砂浜に設置され、漁師小屋や岩場といった背景を霞ませて身ぶりを際だたせ、そのまま顔だけ正面を振り向けている。
 もはや日が低いのだろう、その漁衣に田本研造らしき影が映りこんで、
 やや眩しげな目の色には、しかし和人に対する警戒心や敵意のかけらは微塵もうかがえない。
 あたかもその一瞬を捉えたスナップショット。
 むろん小島一郎が愛用したライカならいざ知らず、当時のガラス乾板にスナップショットが可能であるはずもなく、
 明らかに一瞬を捉えたのは撮影者である以上に、イブリの少女が切り返してくる眼差しのほうである。

▶ 8
 私は小島の北海道ネガ*12のなかから、かつて栄えた漁場のいまはみる影もない荒涼とした厳冬の浜辺に延々とへばりついた海草やら、
 廃村・離散を余儀なくされた開拓の残骸でありながら「堂々と朽ち果てる」切り株やらにまじえて、
 さすがに腰にくるであろうほどに日の暮れるまで、薪割りにいそしむ残留開拓の横向きの老女の一点を抜きだし、
 その隣に昆布採りの少女を配した。
 老女がもし小島のカメラを振り向けば、たちまち六十六年も若返って田本のカメラを見据えることになる(!)
 そう思うのは私だけかもしれず、また小島の写真にどんな演出も一切ないことを断っておきたい。
 田本が頼みこんだささやかな演出も、演出といえるほどの代物ではない。
 彼女はしかし、少なくともそれを察知した。事態の一方性にあっては、それが共鳴か否かを問うことはできないにせよ。*13

SVW_chi

performed by Tashima Chiyuki 《nino-maii bis》
Aug. 2014, photo by Miyauchi Akiyoshi
筆者註
*1] どんな表情をしているのか分からない、ほぼ永遠に知られることはない、そのことが示唆されている。

*2] 筆者の想定はふたつ。撮影者が少年と幼時から親しく接してきたこと。それに加えて、撮影者は少年を徴用する側にあり、場合によっては徴用を妨げる/遅らせることの可能な側にありながら、そうした挙に出なかったこと。撮影者の年齢を加味すれば、誤読の過ぎる想定ではあれ。

*3] 正確には「オシフィエンチム(イディッシュ語)、アウシュヴィッツ(ドイツ語)=ビルケナウ(ポーランド語でブジェジンカ村のドイツ語名、樺の林の謂い)第2強制収容所」内「第五焼却棟」。ナチスドイツのユダヤ人絶滅計画に基づき、大量のユダヤ人死体を処理するユダヤ人特務部隊「ゾンダーコマンド」は、ここで着想され遂行に移された。

*4] ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお ——アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』橋本一径訳、平凡社、2006年。不鮮明ではあっても、これら4枚の写真撮影に成功したゾンダーコマンドたちの名は判明している。アレックス・ダヴィト・ヘレナ・ユゼフ・スタニスワフ・ヘルマン・・・。

*5] 北海道・白老町「仙台藩白老元陣屋資料館」冊子・展示・映像ほか参照。元陣屋とは、分陣を意味する脇(ワキ)陣屋に対して本陣を意味する。胆振(いぶり)支庁の室蘭以東を仙台藩が、室蘭以西を南部藩が管轄したようだ。

*6] 写真家木下清蔵(1901~1988年)。木下清蔵遺作写真集『シラオイコタン』(財)アイヌ民族博物館、1988年刊。コタンの四季の景物からアイヌ古老をまじえた修学旅行や皇族一行の記念写真まで、イオマンテ=クマ送り・カソマンテ=家送り・ウニエンテ=厄払いの葬送・トゥシリ=墓所・クワ=墓標など、とりわけムックリを奏でる古媼(こおうな)の口元と手首のシヌィエ=刺青習俗まで捉えている。

*7] 写真家小島一郎(1924~1964年)。青森県立美術館(高橋しげみ編)『小島一郎作品集成』インスクリプト、2009年。同館で開催された『小島一郎 ——北を撮る』展カタログとして刊行された。

*8] 厠(かわや)の神が「より強力な加護」を担う悪神だという口承は、アイヌに限らぬ神話類型とみなされる。日々刻々、廃棄・忘失・無化されたかにみえるものこそ、いつなんどき再帰してくるか知れない「アブジェクティヴ=おぞましきもの」であり、およそ来歴の知れない「反復強迫」の起動力ともなりうるのだろう。

*9] 琉球では「ぐそう」と発音する。前生(さきしょう)と後生(ごしょう)。この双方を貫いて、苦界と他界を踏破してヒトの生とみなす、アイヌの死生観(もはや歴史哲学といっていい)には大いに関心を惹かれる。

*10] 写真師田本研造(1832~1912年)。1859年函館に転住、凍傷で右足を失うが、執刀したロシア人医師ゼレンスキーから写真技術を習得、1871年から明治新政府の北海道開拓写真師として活躍、1912年函館でその生涯を閉じる。ニッコールクラブ編『北海道開拓写真史』1980年刊ほか参照。

*11] 一本足の写真師田本研造と助手井田倖吉による1897(明治30)年の乾板鶏卵紙「昆布採りの少女」(北海道大学附属図書館所蔵)の一点には、前掲[*6] 木下の古媼とほぼ同じシヌィエ=周唇入墨が認められる。

*12] 青森県立美術館(高橋しげみキュレーション)『小島一郎 ——北を撮る』展における、遺族小島弘子提供の北海道撮影ネガに基づく(筆者豊島による)三面プロジェクション展示【小島一郎の北海道】2009年、を指している。

*13] 豊島重之《不審船 ~二歩(にふ)と二風(ニプ)のサーガ 》第6章より抜粋・加筆、論創社刊『アートポリティクス』所収、2009年。

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